科学・芸術・哲学

整体は科学的でなければならない、整体は芸術的ではなければならない、整体は哲学的で なければならない。

この考え方はカイロプロくらくティックの考え方の一つであるが、整体もこの考え方を取 り入れる事でよりクライアントに受け入れるようになり、また認めれれると僕は考える。

整体の定義と共にとても重要な要素になるのは当たり前ですが、この部分も全く意識しな い治療家が多いので整体の目的が歪んでしまい、手段も歪んでしまい、自信のもてない治 療家になってしまうのである。

整体は科学的でなければならない。

けして整体は非科学てきな物であってはならないのである、しかし未科学である分にはい いのである。目に見えないも例えば霊的なものなどを逃げ道にしてしまう治療家も少なく はない、自分の技術の未熟さを受け入れないでこの非科学の部分に逃げてしまうのは治療 家としてはとても恥ずかしい事だと僕は考えている、個人としては目に見えない非科学的 なものは嫌いではないし、どちらかといえば好きな方である、しかし仕事となるとそうは いかない、治療家としお金をいただいて他人の身体を診させていただく以上、科学的に説 明できるように治療するのが必要なのだ。だから整体は科学的でなければならないのである。

整体は芸術的でなければならない。

技術は芸術的でなければならない、それは美しくなければならないという事である。美し い技術は人を魅了すると共に治療家自身の身体を守る事につながる。美しくない技術は身 体を壊すのだ、見ていて美しくないという事は身体の使い方が間違っているという事である。

身体の使い方のプロである整体師の技術の身体の使い方が間違っているというのは致命的 な欠点と言える。

職人の技は美しいというように整体師の技も美しいものでなければならない。 最近はインターネットやチラシなどの広告媒体に治療中の写真を載せている治療家がとて も多いが、その形が美しくない間違っているというような写真を多く見かける、しかも下 手くそな治療家ほど自信満々に写真に写っている、気がついてないのは自分だけというと ても滑稽な状態になっている事に気がついていない、クライアントでも見れば分かるの だ、その治療家の腕がいいのか?悪いのか?スタンス・手作り・胴作り・目線・頭の位置 など基本を分かっていない治療家の技術は見れば分かるのです。

そして、整体は哲学的でなければならない。

哲学とは難しい事を言うということではなくて、知る事を愛する。学ぶことを愛するとい う簡単な事である。治療家が学びを辞めたらそれは衰退にしかならない、いつまで経って も本物を目指し学び続ける、これが治療家・整体師にとって最も重要なことの一つである と僕は考える。

 

そしてもう一つこの科学・芸術・哲学で僕は考えてる事がある。 科学(サイエンス)は再現性がある事 芸術(アート)は再現性がない事 哲学(フィロソフィー)はより簡単にする事である。

この視点から見ても整体には科学・芸術・哲学がとても重要なのである。

前記の科学・芸術・哲学と分かりやすいように言い方を分けて英語(カタカナ)で表記し てみる。

よく失敗とはサイエンスであり、成功とはアートであるという言い方をする人がいるが、 これが僕にとっては一つのヒントとなった言葉である。

技術・技という部分では再現性がなければならないサイエンスでなければならないのである。 基本の技術やテクニックの部分はサイエンスでなければ認めてもらえないし説得力はゼロ になってしまう。だからこのサイエンスの部分を徹底的に習得し理解する事で理論的な治療ができるようになるのである。

しかし、治療という観点からみるとアートである一面もあるのである、クライアント一人 一人身体は違うし生活習慣も癖も違う、この一人一違う身体へ的確にアプローチするには 再現性はないに等しいとも言える。治療とはアートであるのである。 検査をして身体の状態を把握しクライアントにどのようにアプローチするのか?オリジナ ルな治療計画を立ててアプローチする事が的確な治療への第一歩だとするならば、クライ アント一人一人全く違うアプローチが必要になってくる。 このアプローチができないから多くの治療家は迷い自信を失うのである。 治療に正解があるか?ないか?と聞かれれば正解は無限にあるのである。 この無限にある正解の中から一番のベストを選択し治療するのが治療家の腕の見せ所であ りセンスを問われるところでもあるのである。

そして、最後のフィロソフィーにつながるのである、クライアントを愛する事ができるか?大切なクライアントのために自分の持つ全ての技術を知識を集結させて真剣に向かい、クライアントの身体を知る。

その上でそのクライアントに必要な技術を提供するので ある。 クライアントを愛する事が出来ない治療家は二流である、なぜならそのクライアントの身 体を知る事をしなくなるからである。 技術とはサイエンスであり、治療とはアートであり、治すとはフィロソフィーなのである。

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